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創価大学教育学会>書庫>2014年 第13回大会基調講演抄録
基調講演抄録

牧口先生の単級教授への取り組みと創価教育学説
 ―子どもの能動的な学びの力の育成―

麻生千明(足利工業大学教授・本学非常勤講師)

牧口常三郎先生(以下牧口と記す)の創価教育学説は、欧米の教育学説等をも広く学びつつ、しかしそれらの単なる祖述紹介ではなく、牧口自身の日々の教育現場での実践、所与の状況のなかでの思索と検証により形成されていったという特徴をもっている。したがって牧口自身の教育実践、とりわけ若き頃の北海道師範学校時代における単級教授への取り組みと思索は、後年にまとめられる創価教育学説にも色濃く反映されていると思われる。

1.牧口の単級教授への取り組み

新潟県荒浜の厳しい自然環境のなかで生まれ、少年期を過ごした牧口は、青年期に北海道に移住、北海道師範学校に編入し明治26年に新設された単級教室を自ら進んで担当、明治28年には文部省主催の単級教授法講習会に北海道を代表して参加、そこでの講習筆記録、および「単級教授の研究」と題する牧口の考察を加えた論稿が『牧口常三郎全集第七巻 初期教育学論集』(第三文明社)に収録されている。そして明治31年には牧口自身が北海道の亀田で教員対象の単級教授の講習を担当している。一人の教師で学年が異なる全校児童の教育を担わなければならない単級学校における教育(教授、訓練)や教師のあり方についての模索や考究が求められるものであった。

2.「単級教授」の学校制度史・教育方法史上の位置づけ

わが国明治以後の教育方法は、西洋から一斉教授法が導入され、当然ながら等級(学年)別授業が原則、理想とされたが、教員不足、校舎・教室の不備、就学率の低迷や中途退学等により等級別在籍児童数は上級ほど少なくなる極端なピラミッド型であった。したがって明治初期は複数等級を合併した「合級教授」(複式教育)の実態が広くみられた。

明治20年代は法制、医学、軍制、教育などあらゆる面でドイツ志向のもと、教育学説もヘルバルト教育学の導入、そしてドイツのein-klassige Volksschuleをモデルに、一人の教師で全学校の教育を担当する「単級学校」が制度化された。端的には1891(明治24)年公布の文部省令第十二号「学級編制等ニ関スル規則」により、学級数の単・複による単級学校・多級学校が制度化されたが、前史的には1886(明治19)年の文部省令第八号「小学校ノ学科及其程度」により、一教員の受け持ち児童数が尋常小学校は80人、高等小学校は70人とする規定が初めて登場、これにより従来、等級(学年・grade)概念であった「級」に集団(class)という概念が付与されることとなった。そして全校児童数が80人以下の学校(尋小)の場合は実質的に単級学校が招来されることとなった。また当時の初代文相、森有礼は、尋常小学校、高等小学校という本体のほかに、特に貧民家庭の子弟の就学普及をはかるためカリキュラムが簡素で授業料無償の「簡易学校」を制度化したが、そのほとんどは全校児童数が80人以下の実質的に単級学校であった。しかもその簡易学校は、特に北海道は9割を占める多さであった。したがって単級教授(単級学校の教授法)の研究は、とりわけ北海道においては切実性が高かったのである。単級・多級学校の制度化により、明治20年代後半期は全国の小学校の半数近くが単級学校であった。したがって全国各地で中央から講師を招いての単級教授の講習や研究が活発化、明治28年には文部省主催の単級教授法の講習が実施され、牧口が北海道を代表して参加したのである。

3.牧口の単級教授講習会の筆記録

明治28年、文部省主催の単級教授法講習の筆記は、講師黒田定治の講習内容の筆記であるが、また牧口自身が学び、血肉化した内容でもある。単級教授の制度化は、主に財政上の事情によるものであるが、全校児童の教育を一人の教師で担当するのであるから、特に教授上は、等級(学年)別教授に比べて劣悪な条件下での教育であった。したがって、そのような悪条件のもとで、いかに効果のあがる教育をするかについて多大な創意工夫と教師の熟練が求められるものであった。単級と従来の合級とはどう異なるのか。従来の合級教授は等級の集合であるが、単級教授は全児童をひとつの学級(一団)として、等級の異なる児童の教育を、いかに並行的に能率的に進めるか、そこに児童の等級や特に学科の特質を考慮した組分け、学科の組み合わせ、時間割等についての工夫が求められた。

また単級教授は当然、等級別教授に比べ教師の監視や教授の手がゆき届き得ないため、必然的に授ける知識の分量も少なくならざるを得ず、かつ児童の自学・自働に大きく依存せざるを得なかった。それは一面、単級教授のマイナス面であるが、そこに児童の自学、自働の力や習慣を培い、学力の定着がなされるというプラス面が着目される。また単級学校には教員居宅が付設され、それは教師の家族のプライバシーがなくなったり、公私混同の問題もあるが、かつての江戸時代の私塾のような師弟間の家族的情愛、異年齢の生徒間の同情などの感情の交流などプラス面もある。牧口が児童一人一人に向けた深い慈愛も、そうした単級教授の実践のなかで培われた要素もあるように思われる。

4.創価教育学説における単級教授への取り組みの影響

①「経済を原理とせよ」

創価教育学説においては「経済を原理とせよ」がモットーのひとつとして掲げられているが、それは教師の教育(教授)のエネルギーをいかに効率的に配分し、また時間を徒費することなく児童の学習力をいかに引き出し、伸ばすか・・・という単級学校の劣悪な教育条件のもとでの実践経験のなかから導き出されたものと思われる。

②児童の自学・自働、能動的な学びの力の重視

創価教育学説では、教授の巧拙、優劣は、授けた知識の量で決まるのではない。肝心なことは、知識がどれだけ児童に確実なものとして定着したか、そして児童がとれだけ主体的・能動的な学習力(学ぶ力)を身につけたかなど、要するに児童の自学・自働というものが極めて重視されている。牧口が、何よりも子ども自身の学習力、探求力をいかに重視していたかは、当時の、親が子どもの宿題をやってあげる「代行主義」が横行していた風潮を厳しく批判していたところにもうかがわれる。また教授の目的は児童に興味を喚起することであるとの指摘は実に傾聴すべきものである。興味は学習させるための手段ではなく、児童が興味をもつこと自体が教授の目的であるとの主張である。馬に水を飲ませようと強引に水辺に引っ張っていっても、馬自身の飲む意思、意欲がないと水を飲ませることはできない。学ぶことの目的観が見失われ、学習意欲の低下が指摘されている現代、そして「生涯学習」の重要性が指摘されている現代に大きな説得性をもっていると言えよう。

そして「一定の時間に必ず一人の教師が居なければならぬといふ是迄の慣例は価値の意識が明確に導入され、自学自習の方法が貴重なりといふことが認められ、学校の制度が一変する時代には、全く改良されることになるであろう。」(『牧口常三郎全集第六巻 創価教育学体系(下)』60頁)との主張、そして教科書・教材が完備すれば、それを解説するだけの教師は不要とする主張は、通信教育の主張にもつながるものである。そうした主張には、牧口自身の独学の体験と、特に単級教授の実践経験が息づいているように思われる。

③教師論

創価教育学説においては「教授」という用語を避け、児童の学習活動を重視する「学習指導主義」という用語が用いられている。そこには単に知識を授けるのみが教師の役割ではなく、児童の学ぶ力を喚起することこそ教師の役目であり、教職の専門職性の根拠はそこにあるとの主張である。創価教育学説においては、教師像・教師論に関して、被教育者の「補助者」、「誘導者」、「産婆役」という言葉で表現されている。さらに学ぶ続ける教師、成長し続ける教師、後進を自分以上に成長させようとする教師像(仏法用語で言う「従藍而青」)が示されているが、「学び続ける教師像」などはまさに今日強調されている教師像でもある。

子どもの主体的な学習活動を重んずる「自学主義」等の思潮は、大正新教育の時代にも主張され、一部の師範学校付属小学校や私立学校でも児童中心主義の教育が実践された。また戦後には、戦前の「教授」に変わる「学習指導」という言葉が広く教育界にも定着するようになった。そして現代、「ゆとり教育」が方針とされた時期は、記憶再生型ではなく思考力、問題解決能力、創造性など「新しい学力観」が提唱された。しかし学力低下の結果を招来すると「脱ゆとり」が方針とされ、現在は「習得型」と「活用型」の両方の学力の向上が目指されている。牧口の創価教育学説には、そうした歴史の変遷を通して、現代にも優に通用し得る普遍性が痛感される。しかも軍国主義教育が横行していた昭和戦前期における主張である。それは、創価教育学説が、単に時代の思想や流行の学説の影響によってではなく、牧口自身の体験、若き頃からの単級教授などの現場経験のなかでの真摯な思索によって培われていった主張ゆえに、時代を超えた普遍性を持ち得ていると考える。