日本の学校(主に小・中・高)における教育現場では、様々な課題が山積している。とりわけ、教師の精神疾患の増加、多忙感・疲労感の消化不良、心理的余裕の欠如による軽率な言動が引き起こす不祥事の数々などを見ると、教師の心理的余裕が喪失され、「精神的支柱」が揺らいでいることを憂慮せずにはいられない。
以上のような課題に対し、筆者はこれまで、その「精神的支柱」の在り方を、笑い・ユーモアを用いて種々検討を重ねた。そして、笑い・ユーモアを適切に用いる「感覚」を磨くことで、多忙を極める教師のストレス・コーピング(心身のストレスの解消)を促し、心理的余裕を生み出すことが出来ると考えた。筆者はこれを「ユーモア・センス」と名付け、それらをさらに4領域に分け、以下のように定義した。
教師に求められる使命感や責任感は、「法律に定める学校」(教育基本法)の教員と言う立場からも、「社会全体の奉仕者」として、ある意味、良識ある人間の鑑を"演じる"必要がある。日ごろ教師たちは、"教師としてあるべき姿"と"持って生まれた素の自分の姿"とのはざまで、「自分はどのように見られているのか(見られるべきか)」という葛藤をしている。しかし、元来日本の寄席芸能では、アドリブや失敗を観客が歓迎するような文化的土壌がある。つまり、人間の"素"を受け入れ、笑い合うという人間関係が、日本において成り立っているのである。
以上を踏まえて筆者は、教師は自身の"素"を理解し、それを自分自身が受け入れ、またいかにコントロールするかを模索することで、心理的負荷を軽減できるのではないかと考える。
しかし、これまでの考察は、歴史的考察という観点が不足していた。また、笑い学研究においても、日本の学校教育における笑い・ユーモアの歴史的研究は全く行われていない。
『笑いとユーモア』において、織田正吉(1979)は、ユーモアを感じ取る能力とは、「あらゆる種類の心の束縛から解放されるための一つの能力」であり、「固定観念や先入観をとりのぞき、アイディアをひらめかせ、表面の現象にとらわれないで、かくされた真相や実態を見ぬくことのできる知性の一種」であると述べた。つまり、ユーモアを感じ取る能力とは、多面的・多角的思考を持っていることであり、あらゆる差異を超えて、それらを理解しようとする、ある種"人間性"に近いものを指しているのである。
今回は、日本の学校教育における、笑い・ユーモアの歴史的考察の出発点として、笑い・ユーモアが戦後どのように関連してきたかを、中央教育審議会(以下、中教審)答申を中心に考察することにした。文言から拾い出すキーワードとしては、「笑い」「ユーモア」のほかに、「人間性」「多面的」「多角的」「柔軟」などといった言葉も、織田の定義を参考に、「ユーモア近似性単語」としてカウントした。
考察の結果、笑い・ユーモアという文言はほとんど存在せず、最も多い「ユーモア近似性単語」は「人間性」であった。また、中教審が定義するところの人間性は、織田が定義するユーモアと類似しており、教育におけるユーモア研究の在り方を示唆するものとなった。
キーワード:ユーモア・センス、"素"の演劇化、人間性、多面的・多角的思考